どうだァ、マミリン、あいつとの生活は。そろそろストレス溜まってんじゃないか? なんなら俺と、一発スカッとストレスはっさ
「ボスの方がストレス溜まってきてると思いますけど」
スカッと、のあたりでパチンと指を鳴らして変なポーズを作りかけていた野立さんを、あたしは強い口調で遮った。いつもより余計に声が低くなったのは、黒原理香のことを思い出して苛立ちはじめたところに野立さんが現れたからだった。
「何かあったのか?」
ふざけるのをやめた低い声が、少し心配そうな響きを帯びる。この人があたしを心配するのは、ボスのことが心配だからだ。そんなに心配なら自分で見張っていればいいのに。いつでも側にいられるような、そういう立場になればいいのに。臆病者め、と思いながらあたしは渋々口を開いた。
「……いえ、別に。ただ、最近よくため息ついてるんで」
○ ○ ○
一緒に暮らしてみるまで知らなかったボスの意外な一面シリーズの中の一つに、バラエティ番組を録画してまで見る、というのがある。
全くテレビを見ないあたしからすると、録画してまで、バラエティ番組を、と二重の驚きだった。ボスがそこまでするんだからと思って一度、ボスの帰りが遅くなる一人の夜にこっそり見てみたことがある。あまりのくだらなさに気が遠くなりかけて、二十分で限界だったことは今でも秘密だ。
そんな録画するほど好きなものを見ているとは思えない横顔が、その表情にぴったりの物憂げなため息を一つ浮かべた。あたしは洗濯機から取り出した乾きたての洗濯物を抱えて、自分の部屋に戻るところだった。ボスがちらりとあたしを見る。何にも気付かないふりをして、あたしはその場を通り過ぎた。
あれからもうすぐ一ヶ月になる。最近のボスは、わりといつもこんなふうだ。
首を振り続けている扇風機の前を横切り、ベッドの上に洗濯物を下ろす。それを畳んだりハンガーに掛けたりしながら考える。当初、思うように進展しない捜査に対する歯痒さを、ため息にして吐き出しているのだと思っていたあたしは、事件が解決すると同時に、ボスのそれが捜査の進展とは無関係だったことを知る。
恐れていたことがついに起きたかもしれないわりには、あたしはあまりショックを受けていなかった。ずっと一人で気ままに暮らしてきた人だ。いくらあたしが自室にこもっていることが多いとはいっても、私的な生活空間に他人がいるというだけで息が詰まるのは仕方ない。あまりに当然すぎるから、ショックが少ないのかもしれなかった。
それよりも、あたしは自分が不思議で堪らない。一人で気ままに暮らしてきたというならあたしも同じで、あたしだってボスを鬱陶しく感じても不思議じゃないのに、今のところ全くそんな気配がない。あたしにしか頼めないと野立さんが言ったように、本当にあたしは適任だと思う。なんだか少し悲しくなるほど。
洗濯物が片付いて、あたしはベッドに仰向けに倒れた。枕元のリモコンで天井の照明を消す。ほとんど使ってないから、とボスが貸してくれたフットライトの明かりだけが、ぼんやりと床を滲ませている。小さな冷蔵庫を買ってここに置こうか。この任務が終わったらどうせ必要になるんだし。そしたらもう少しだけ、部屋を出る頻度を減らせるはず。
そんなことを思っていると、どんどん喉が渇いてきた。思わずこぼれたため息に、またボスのことを考える。鬱陶しいとは思わないし、あんなふうにため息をつくこともないけれど、あたしだって全く平気かと言われれば本当は少し違う。あたしにだって、息が詰まる瞬間はあるんだ。
閉じた瞼の上に手首を乗せる。ため息にならないように慎重に深呼吸をする。ああ、喉が渇いた。
数分後、意を決して部屋を出ると、リビングが間接照明だけの真夜中仕様になっていた。まだそんなに遅い時間ではないはずなのに、珍しい。不思議に思っても声はかけず、ソファーで伸びているボスを尻目にあたしはキッチンに向かった。テレビはもう消えていた。
冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して、大きめのガラスのコップに注ぐ。どうしてもボスのことが気になるけれど、気にしていないように振る舞わなくてはと思う。だって気にされたら鬱陶しいだろうと思う。ボスが今何を考えているのか知りたいけれど、別に何も考えていないのかもしれない、ただ静かな気持ちになりたいのかもしれない、そう思うけれど、そう思うだけで、本当はどうなのかわからない。
熱気のこもるキッチンにいられなくて、ボスのいるソファーにも座れなくて、だけどなんとなくこのまま同じ空間にいたくて、ダイニングテーブルに移動した。椅子を引くと思ったよりも大きな音がして、なんとなく悪いことをした気持ちになった。すぐに静まり返った部屋の中、体を起こしたボスが振り向いて、ひらひらと手だけであたしを呼んだ。
何か用があるのかと思い、ソファーの横に立ったあたしに、座りなさい、とその目が言う。いつになく鋭い上目遣いに、説教でも始まるのかと身構えながら言うことを聞く。仕事中も、帰ってからも、叱られるようなことをした覚えはない。だから堂々としていようと思った。だけど難しかった。雰囲気に飲まれた。
座れと言うならもう少し詰めてくれればいいのに。ソファーの端ギリギリに座っていても、やたらと距離が近い。家にいるときのボスがこんな空気を纏っているのは珍しくて、少し緊張してしまう。いつもはもっと柔らかい。もっと気が抜けていて、もっと気安い。物憂げにため息を浮かべてはいても。
ボスの目が何かを言いたそうにあたしを見る。ボスの唇が意味ありげに息を吐く。どう考えたって二つの動作には繋がりがある。だとしても、あたしからは何も言えない。何をどう言っていいのかもわからない。あたしはボスの言葉を待って、脚の上に乗せている両手の中のコップを見た。コップの表面の水滴で、手のひらがじんわり濡れてきた。
「部屋、暑い?」
「え……ここは涼しいですけど……?」
あたしにはいつも単刀直入にものを言う人だから、まさかそんなどうでもいい話題から入るとは思わなかった。返事をするのに妙な間が空き、自信のなさに語尾も浮ついた。どうでもいい、とあたしは思ったけれど、ボスは至って真剣な顔をしていた。
「あっちは? エアコン入れてる?」
「一応……。こんなに涼しくはしてないですけど」
「……なんで?」
「え、扇風機も回してるんで」
ボスが何を言いたいのか、これが何のための会話なのか、あたしにはまるでわからない。だけど、とにかくボスにとっては大事なことなんだと、本題に入る前のどうでもいい話ではないんだと、それだけはわかった。
ボスは前髪を横に流すと、考えを絞り出そうとするいつもの仕草でそのままこめかみに触れた。眉間にしわを寄せている。睨むような眼差しが、あたしの顔と脚の上のコップを往復する。吸い込んだ空気をすべてため息にして吐き出すと、ボスは何かを諦めたように小さく頭を振った。そうしてあたしに向き直った。
「ねえ、あんたさあ、いつもそんな恰好なの?」
少しだけ角の取れたその声に、あたしも言葉が出やすくなる。
「え、なんか変ですか」
「いや、変ではないけど。でも出すぎじゃない? 脚とか腕とか」
ボスの視線を追いかけて、あたしは自分の体を見た。袖を肩まで捲くり上げたTシャツと、通気性のいい大きめのショートパンツ。確かに脚とか腕とかは出ている、出ているけれど、それが何か。夜になっても蒸し暑さが退かなくなってきてからは、ほとんどずっとこんな恰好で過ごしている。だから別に、ボスだって初めて見るわけでもないのに。
「もう夏なんで」
「そりゃそうだけどさあ」
そうとしか言いようがない、というあたしの答えに、抱き寄せた膝の上で頬杖をついて、ボスがまたため息をつく。察しが悪い、とでも言いたげな態度をとられても、あたしにはわけがわからない。言葉の続きを待ちながら、とりあえず一度緑茶を煽った。下ろしたコップをテーブルに置きかけて、結局また元の位置に戻す。手持ち無沙汰になるのが嫌だった。
「けどさあ、の続き、わ」
訊いちゃいけなかったとすぐにわかった。頬杖をついているのとは反対の手が伸びてきて、あたしの前髪をわさわさと混ぜた。嫌がると面倒なことになると知っていて、あたしはされるがままでいる。何かをごまかされたのはわかっても、あたしは黙ったままでいる。視界に入ってくる前髪のせいで、ボスの顔が見えなくなった。
「も、もーやめてくださいぃ」
暫くはじっと我慢して、頃合いを見てそう言うと、ボスはすんなり手を離してくれた。いつもそうだ。いきなり嫌がると長引くけれど、少しのあいだ好きにさせてからお願いすると、素直に言うことを聞いてくれる。
こんなふうでもさわられれば嬉しいのは相変わらずで、それでもやめてくださいと言ってしまう。言わずにいたら、もしかしたらもっとずっと続けてくれるのかもしれないけれど、いつも降参してしまう。
息が苦しくなるからだ。言ったことはないけれど、こうされているあいだ中、ずっと息が詰まっている。どうしてかはわからない。いつからなのかもわからない。でも、気付いたときにはそうだった。仕事中の軽い接触ではそんなことはないのに、家にいるときにボスがよくやるようになった、こうして髪を混ぜるやり方をされると、どうしてか息が。どうしても息が。
いつもはこの後、ぐちゃぐちゃになったあたしの髪を見て、ボスが軽く笑う。自分でそうしたくせに、小バカにしたように鼻で笑う。それを合図にあたしは髪と呼吸を整えて、ため息をついてからその場を離れる。あたしが離れられないときは、ボスがその場を離れる。そういうパターンが多かった。
だから、あたしが髪を整えるタイミングを逃したのは、ボスが笑わなかったせいだ。呼吸が上手く整ってくれないのも、そのせいに違いない。合図がなくても自力で、と思ったところに、ボスの手がもう一度近づいてきて、あたしの前髪をゆっくり梳いた。ちゃんと元通りになるように、真ん中で分けて、横に流した。指先が何度かひたいに触れた。なぞるように触れていった。
締まったままの喉の奥で、何かが引っかかる音がした。それは、「う」と「ん」の中間のような声になって、あたしの鼻から抜けていった。妙な気まずさに目を逸らす前に、ボスの顔を見てしまった。前髪が片付いたせいで、よく見えてしまった。ボスは初めて見るような淀んだ瞳であたしを見ていた。コップの底から垂れ落ちた水滴が、太腿の隙間を伝って流れた。